パチンコはもうしない。スロは二度と打たない。公営ギャンブルはしない。酒は呑まない。
決意を固めた〇〇しないですが、実はこの否定形は脳は理解できないそうです。
普通はこの発想になります
このままではダメだから「もう二度と〇〇はやらない」と決意します。
当然だと私は思っていました。
しかし、私自身もなにか違和感があったのですが、それがなんであったのか、この「脳は否定形が理解できない」を調べるうちに少しみえてくるものがありました。
この説によると「ギャンブルはしない」のないを脳が理解できず、ギャンブルだけが残るそうです。
しないことが目的であるにもかかわらず、ギャンブルの意識が残って裏腹に衝動が起こる原因になるというわけです。
私も今までに、ついさっきやめると決めたはずなのに直後にはスリップしていたという経験は数えきれないほどあります。
その時は自分の意志の弱さに嘆き、どんどん自信をなくしていきました。
否定形を肯定系に置き換える
しない⇒する
廊下は走らない⇒廊下は歩きましょう
このような説明をされています。
しかしパチンコを打たないをどうやって置き換えますか?
パチンコという主語があれば、どんな文章に換えてもパチンコというイメージは残ります。意識が強くなってしまうのです。
決意をしない方が良いと言っているのではありません。ただ一般にいわれるような置き換え方では解決できないと感じています。
決意は一度だけ
一度決意したなら依存対象は単語もイメージもいかに遠ざけるかです。

余談になりますが、やめている期間をカウントされている方が多くいらっしゃいます。
一つの励みであり個人に合うのであれば否定はしません。が、そこには常に依存対象が居座ることになると考えます。
また長期間やめ続けた方がスリップすると、その反動がより大きなものになるようにも感じています。
決意を高めるためにはどうすれば良いのかということになりますが…
当然のようにやめることしか選択肢がない状況で、今回は特にやめるといった決意は曖昧でした。
いかに楽しめることを見つけるか
意識にないものが衝動として起こることはありません。
しかし、依存症者になってしまった状況では意識からなくなることはありません。
私は自然と楽しめること、熱中・集中できることが運よく手に入りました。
例えばこのブログもその一つです。
ギャンブル依存症について書く記事ですから、過去のことを思い浮かべギャンブルのことも考えます。
しかし、衝動が起こる以上に記事に関わることの調べものをしたり文章を考えたり。なにより記事を書くこと自体にやり甲斐があるのです。
また、やめる決意を重ねるより衝動が起きたときにどうやって乗り切るかの対策を考えたほうが効果があるものだと思います。
考えることそれは集中することであり、その間は衝動は起こりにくいものです。
もしスリップしてしまったらまた次の対策をもっと考えるのです。
こういった繰り返しがいずれ習慣となり、衝動対策のみならず日常のいろんな場面で役に立ちます。
私の経験から得た方法で誰にでも効果があるわけではありませんが、少しでも参考になることを願っています。
まとめ
生活?もっといえば人生の中心になっていた依存対象。
そんな生活環境では全てがそこに向いていたわけで、他のこと(もの)へは無関心で過ごしてきていたのに、いきなり「熱中できる何かを趣味をみつけて始めよう」と言われても、戸惑うばかりだと思います。
現に私も、その言葉を聞かされ反感を覚えました。
しかし、堪える・我慢するだけでは回復は遅れますし、根底に未練や執着が残っていると尚更です。
一歩を踏み出すのは簡単ではないかもしれませんが、その一歩を踏み出せたなら必ずこれまでになかった感覚が掴めることを期待できます。
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